ヴィパッサナー瞑想体験記

10日間のヴィパッサナー瞑想に初めて参加してきました。

11泊で初日にスマホも貴重品も預けて、外部とはコンタクトが取れない状況なので

人生の状況やタイミングが許す時しか参加できません。

最低でも10日間必要ということですが、私も最後の最後の方にハッキリと

気づいたことがありますし、無意識の領域に毎日少しずつ働きかけていくので

最低でも10日というのはよく分かりました。

 

聖なる沈黙・人と話さない9日間

10日間の間は、朝4時に起きて、夜は9時半就寝。

その間、食事と少しの休憩時間を除いて、1日10時間の瞑想と、夜は講話を聞きます。

最初の9日間は参加者同士のおしゃべり、アイコンタクト、ジェスチャーでのやり取りも

全て禁止されます。

決められた時間に、アシスタントティーチャーに瞑想の質問をすることだけは可能です。

 

すごく面白いのが、人は喋らなくても、人に反応をするし、勝手にその人がどんな人か想像したりします。

エネルギーだけでも個性が出るというか。

この9日間の「聖なる沈黙」も瞑想の効果を出すには大事だそうです。

人はとにかく他の人が気になるから、しゃべってしまうと他の人の瞑想はうまくいってるのか、

身体は痛くないのかおしゃべりし始めたりします。

そうすると「私はうまくできていない」など比較の思考が周り始めたり、瞑想に集中できなく

なっていくんです。

私もこの間、誰とも話さないで、ただただ自分の感覚とだけ向き合える貴重な時間を持てたことが

とても良かったと思っています。

 

肉体的な苦痛

それにしても、最初の4日間くらい特にキツかったのが、肉体的な苦しみです・・・。

心の痛みは予想していましたが、身体の痛みはあまり心配していませんでした。

でも床に1日10時間以上座るなんて生活はもちろんしていないので、体のアチコチがすごーく痛くなります。

私は昔から左肩周辺に時々、すごいダルさと痛みが現れることがあるんですが、

瞑想中は左半身にだけ痛みが集中して、左の股関節から脚全体、左肩から肩甲骨あたりにかけて

痛みのオンパレードです。時には脂汗が出るほど。

最初に襲った不安が、このまま10日間、身体が壊れずに持ってくれるかなということでした。

この肉体的な痛みにも実は意味があります。

 

ヴィパッサナー瞑想は『解脱(悟り)』を目指すものです。

すべては変化していく(アニッチャー)無常を体験的に理解していくのです。

「良い感覚」も「悪い感覚」も必ず変化していくもの。

どんな感覚にも嫌悪を執着もせずに、ただ平静に見つめていくということを養うのです。

これは心の反応でも同じです。

自分の中の、快の反応にも不快な反応にも、どちらもただ平静に見つめていく。

 

5日目からは1日1時間×3回のグループ瞑想の時間は、足を組み替えたり、一切動いてはいけない

という修行が始まります。

最初は乗り越えられるんだろうか・・・という不安もよぎりましたが、そこで大事なことを思い出します。

 

すべては一瞬、一瞬、生まれ変わっている(変化している)。

 

講話では量子力学的な話とブッダが悟りを開いた時に気づいた真理の話がされますが、

今まで学んできたことを再復習する感じで、ヴィパッサナー瞑想前に私がちょうど感じていたことと

リンクしていました。

その一つが、すべては素粒子で、すべてのものは毎瞬変化しているということ。

 

この永遠にも思える痛みも、永遠には続かない。毎瞬変化している。

だから今日の私はこの痛みに耐えられるか不安でも、明日の私はもう大丈夫かもしれない。

そんな気持ちで、痛みにも反応せず、ただ見ていきました。

すると不思議なことに、痛いことは痛いけれど、グループ瞑想の時に動かずに1時間過ごせました。

でも最初はギリギリと言った感じ。

それが日を追うにつれて、最後の方は1時間以上続いても大丈夫なくらい、座っていても強い痛みは無くなりました。

 

慣れなのか、意識なのか、多分その両方ですが、なんとかなるもんです。

最初に強く感じていた、肉体やエネルギー的な左右差も、最後の方はかなり整ったような気がしました。

 

ヴィパッサナーの教え

毎日講話を聞くのですが、メモも何も取れない状況なので、印象に残っていることをお話しします。

セミナーなどに行くとついメモを取ることに夢中になりますが、実は大切なことはちゃんとインプット

されるのかもしれません。

 

ヴィパッサナーは自分の心のクセを変えること。

心の奥底の汚濁の浄化。

 

私たちは6つの感覚器官(目・耳・鼻・皮膚・舌・心)が外界と接触することで、

「好き・嫌い」という反応を繰り返し、執着や渇望、嫌悪を生み出す。

自分を観察するとよく分かりますが、普段の状態、つまり無意識の状態でいると私たちは、

外界への反応しかしていません。

私が前回「無意識のエネルギー漏れ」というブログで書きましたが、

これは外界に反応だけしている状態と同じです。

この自動反応は、自分が気づかないと、変えることは出来ません。

心のクセというのは、この反応(サンカーラ)のことです。

 

この反応は何もしないでいるとどんどん強化されていき、それが種となって、現実に反映されていきます。

 

大切なのは、平静さと、気づき。

 

自分の心と身体に起こっているありのままを観察していき、嫌悪と渇望を手放していくこと。

すべては変化していく、無常、という真理を、頭の知識としてではなく、経験していくことで

パンニャー(智恵)を育んでいくこと。

 

要するに、外側に反応して振り回されるのではなく、外側に反応している自分に気づき、

快に対する渇望(執着)と、不快に対する嫌悪を解放していき、「あるがままの現実」

をそのままに受けとめていくことで、究極の平安、幸せが得られるということです。

 

これにはエゴは「絶対にそんなのは嫌だ」「外側を変えたい」と抵抗することでしょう。

それこそが苦しみです。

 

ここからは私の解釈です。

「あるがままの現実」を受けとめたら、何も変わらないし、周りの状況がどんなに嫌なものでも

自分だけが我慢をするようで受け入れられないと感じるかもしれません。

でも真実は、「あるがままの現実」を受けとめても、物事は常に変わっていきますし、

そこに「渇望と嫌悪の種」を撒かないので、人生はスムーズに最適な方に流れていく、

周りの状況に翻弄されずに、自分の中にはいつも平安と幸せがある

のだと思います。

 

エゴは望ましくない状況があると「何かをしなければ!」「手を打たなければ大変なことになる!」

という衝動を起こします。

逆に望ましい状況の時は「これを絶対に手放したくない」という渇望が生まれます。

現実はいつもあるがままなので、そのどちらにも反応しない練習をしていくことで

現実は常に優しいものとなります。

 

ちなみに反応を「消す」必要はありませんし、それは肉体を持って生きている私たちには無理なことでしょう。

先ほど言った通り、五感と心が常に外部に反応するからです。

講話での例え話がありました。

その反応がサッと流れるようなものであれば気にする必要はなく、

砂浜に指で描いた程度のものでも現実には反映されません。

ただその反応が、岩に槌で刻んだような反応になっていくと、その影響は現実にも現れてきます

 

例えば、私たちは誰かから嫌なことを言われた時に、例えそれが一度きりのことでも

何度も何度も、頭で反芻します。

若い頃に言われた傷ついた一言を、年老いてからも永遠に自分の中でリピートしてしまう人もいるでしょう。

これが岩に刻んだような反応です。

 

大切なことは、どんな反応でもそれを平静に眺めて、渇望や嫌悪を手放していくことです。

 

気づき

ヴィパッサナー瞑想では、六感(目・耳・鼻・皮膚・舌・心)で外界に向いたセンサーを、

身体の内側の感覚にだけ向けていきます。

そうすることで、心の奥底にある汚濁を取り除くことができると言われています。

私は今年の頭から、自分の土台、OSを作り替えようとしている感覚がありますが、

今回は自分が見たくなかった「汚濁」にハッキリと気づきました。

それは自分の中に、こんなにも嫌悪や攻撃性があったと言うことです。

 

それに気づいた出来事の一つは、グループ瞑想中に、

誰かが動くことで服が擦れるカシャカシャする音が聞こえてきた時のことです。

ヴィパッサナーでは、この音が他の人の瞑想の妨げになるから、

ナイロンの服は着ないようにと言われています。

 

それなのに、誰かがナイロンを着ていて、すごく音を立てている!!!

 

もともと音にとても敏感な私は、その音にだけフォーカスしてしまい、全然集中出来ません。

イライラがだんだん怒りになり、今すぐ立って厳しく注意したいくらいの怒りが湧いてきました。

その後、女性のお世話をしてくれるマネージャーに「注意してもらうことは出来ないのか?」

とお聞きしたら「音が気になるというのは良い質問なので、ぜひティーチャーに聞いてみて下さい。」

と言われてしまいました。

 

「そうか・・・やっぱり・・・。注意して外側を変えるんではなくて、

この反応を起こしているのは自分なんだな。」と、少しの落胆と共に正気に戻ります。

ティーチャーに質問をしたら「意識は外へ外へいくから、音が気になった時も内側にすぐに戻りなさい。

外が気になると、さらにそこに注意がいきます。」

と言う予想通りの回答でした。

 

自分の内面を見つめてみると、不快な音は私の境界線に侵入されている感覚があり、攻撃と捉えていました。

思えば、家でも同居している母が立てる音がすごく気になり、怒りが湧いてくることがあります。

くしゃみや咳など生理的な現象で音を立てている人は仕方がないと思えましたが、

「禁止されているナイロンの服を着ている」と言うことで、自分の正当性が強化されていき、

さらに攻撃性が湧いてきます。

 

「自分の中の正当性」これはあらゆる戦いのプロパガンダになります。

自分の正当性よりも調和を選ばない限り、攻撃性は無くなりません。

 

もう一つ印象的な出来事がありました。

聖なる沈黙中は参加者とのジェスチャーやアイコンタクトも禁止されていますが、

私が洗い場を使っている時に、私の肩を叩き、ジェスチャーとアイコンタクトで

「お湯を使いたいからここを使わせて」と言ってきた女性がいました。

私が長くその場所を使っていた訳ではなく、まさに使い始めたばかりです。

実はその女性のことは、その出来事の前から、廊下を走る音などが気になっていました。

その出来事は私に衝撃を覚え、

 

禁止されているのに、こんなのあり!?なんなのこの人!?

 

という嫌悪感がムクムク湧いてきます。

その後も、彼女が視界の隅に入るだけで避けたいような感覚が生まれます。

ここでも正当性を振りかざしている私がいて、平静になろうと努めても、気になってしまうのです。

これも思い返してみると、人生の中でもあるタイプの人たちに対して

「一度嫌になると、その人がどんどん嫌になってしまう」

と言うパターンを私は持っていました。

自分の中にある、否定することのできない嫌悪感。

自分は優しい人間だと思いたかったけれど、こんなにも嫌悪感を持っている。

これはとてもショックでした。

それと同時に、この嫌悪感は自分へ向けられたものだと言うことも分かっていました。

 

この10日間では、人生で出会ってきた様々な人たちとのことを思い出しました。

私はいつも「彼らが私をどう思っているか。どう扱っているか。」

ばかりを無意識に気にしていました。

自分を好きになってくれる人や、よくしてくれる人に優しくすることは

難しいことではありません。

でもそれでは、ギブ&テイクの取引的な関係です。

私から見返りを期待しないで、愛を与えていたことはある?

自分が思っていた以上に自分のことばかり考えていた。

なんて自己中心的な世界観なんでしょう。

 

この根底には、強い被害者意識があるような気がしました。

被害者である自分は、正当性を主張して自分を守る権利がある。

そんな世界観です。

この世界観では、人と愛で繋がることは出来ないし、

本当の意味での平安や幸せは得られないことが自分でも明確に分かりました。

だからこそ奥底に孤独感があったのだと思います。

 

癒し

11日目に俗世に戻るために、10日目は聖なる沈黙が破られて参加者同士のおしゃべりが

解禁されました。

それと共に、この日からメッターバーバナーと言う慈悲の瞑想を伝授されます。

これは生きとし生けるものの平和と幸せを祈る瞑想なので、「自分の心も身体も

平和な時以外はしてはいけない」と言われました。

その時私は、嫌悪を感じている女性のことが頭の片隅にあったので、心がザワザワしました。

今の私はメッターバーバナーをして良いんだろうか・・。

そんな気持ちで行ったメッターバーバナーは、やはり平安な気持ちにはならずに、

部屋に帰った時に涙が溢れました。

そして、今まで私が嫌悪してきた人たちに、心から「ごめんなさい」と言う気持ちが湧いてきたのです。

 

メッターバーバナーでは

私の怒りや憎しみ、敵意が解放されますように。

私の慈悲や善意、思いやり、純粋な愛が育まれますように。

という言葉もありました。

 

自分がいかにまだ人に敵意を持っており、慈悲や思いやりに欠けていたかを痛感しました。

そして心から変わりたいと思いました。

不思議なことに、今までの人生で私を傷つけたと感じた人たちへも、自然に

赦しの気持ちが生まれました。彼らも傷ついている人ことがはっきりと分かります。

そして私が意識的にも無意識にでも傷つけた人たちへの反省と謝罪の気持ちが溢れました。

 

その後の休み時間で、私が避けていた女性に会ったので思い切って話しかけてみました。

そうしたら、とても聡明な面白い方で話が盛り上がり、すっかり私の誤解と偏見は解けました。

もうなんのわだかまりもありません。

 

「ああ、そういうことだったのか・・・。

私は今までも相手を知ろうともせずに、自分が作り上げた相手の像を嫌悪していたんだ。

 

その誤解が解けた後の、夜のメッターバーバナーはとても平穏な気持ちで行うことが出来ました。

 

最後に

10日間の私のヴィパッサナー瞑想体験での気づきは、まだ続いています。

ここで終わらせてしまっては意味がありません。

日常生活に戻ると、自分の心が乱される出来事や、

思い通りにいかないこともたくさん起こるでしょう。

でも私は平穏を選びたい。

本当の思いやりや、純粋な愛を育みたい。

敵意や嫌悪は手放していきたい。

それはこれからの実践で、反応のクセを変えていく必要があります。

 

長い間「自分癒し」をやってきましたが、

私の「被害者意識の癒し」が中心だったように思います。

「傷つけられた、傷ついた私の癒し」です。

でも今年に入って他者を、世界を過剰に警戒している自分に気づき始めました。

それぐらい外の世界を怖がって、自分を守ろうとしていました。

自分を守ろうとするということは、外には敵が沢山いると思っているということです。

 

メッターバーバナーでは

みんなあなたの敵ではない。

みんなあなたの友達だ。

と言う言葉があります。

この言葉も深く沁みました。

 

ヴィパッサナー瞑想という心の手術の体験を大切に

本気で自分の世界を作りかえていきたいと思いました。

ヴィパッサナー瞑想体験記” への4件のフィードバック

  1. ハルさんの自分自身の奥底を包み隠さず真っ直ぐ捉えて表現されてらっしゃる、そのことに深く感動してます。
    一つ一つを丁寧に表現してくださっているので、深く読み返したいです。
    素晴らしいシェアありがとうございます!

    1. 里香さん、読んでくださりありがとうございます!
      そのようなご感想を頂けてとても嬉しく思います(*˘︶˘人)
      この気づきを大切に消化していきたいです。

      1. 今、直面している問題のヒントがあり、びっくりしました。ありがとうございます。
        職場の人間関係で、過去に私を傷つけた人とまた一緒に仕事をするシチュエーションになりました。
        どうしても許せないことが、わいてきて。
        まぁ、いろいろな思いがわいてくるんです。

        私の敵ではない。
        私の友達なんだ。
        と思うようにすると決めました。
        ありがとう(*^^*)

        1. コメントありがとうございます(*^^*)
          無理に許そうとすると苦しいかもしれませんが、いろいろな思いが湧いてくる自分を受け入れつつ、
          その方が自分に何かを教えてくれている存在という意味でも「友達」と思えたら良いかもしれませんね。
          また一緒に働くのは何か意味があると思うので、最適な方にいきますように!

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