前回まで2回に渡り、高い実績があるにも関わらず自分に自信がない「インポスター症候群」と、「自信をつけよう」という終わりのないループについて書きました。
今回は、私も目から鱗が落ちた「自信をつける必要はない」という新たな視点について、お話ししたいと思います。
「自信を持ちなさい」という呪縛
前回のブログでも書きましたが、「自信のなさ」は私にとって、子供の頃から大きな課題でした。
母からも「自信を持ちなさい」と言われ続けて育ち、「自信のない自分」にさらに自信をなくすという悪循環に陥っていました。
おそらく多くの人も「自信を持つ」ということに良いイメージがあるのではないでしょうか。
先日、非二元(悟り)の発信をされている方が、
「みんな自信をつけようとするけど、自信を持つ必要はない。
あるがままの真実を理解すると、そもそも“自信がない状態がなくなる”。
何かが出来なかったとしても、そういう自分もただ『そうなんだな』と思うだけになる」
という内容をお話しされていました。
それを聞いて私は「なるほど・・・」と深く納得しました。
2つの「自信」と、社会の刷り込み
「自信がある」という言葉には2種類のニュアンスが含まれていると思います。
一つ目は、職人さんがずっと鍛錬を続けてきて、自分でもそれなりに納得のいく状態に到達してやっと「自信がつく」ようなケース。
何事も最初から出来る人はいません。技術が到達していないのに「自信がある」状態にいるとしたら、それはそれで自分を客観視できていない可能性もあります。
要するに比較対象は過去の自分であり、「昨日よりも今日これができた」と認めてあげられる状態。
二つ目は、他者との比較により「自信がある」状態。
人より偏差値が高い。
年収が高い。
ステイタスのある会社に勤めている。
素晴らしいパートナーがいる。
容姿が優れている。
友達が多い。
霊性が高い(!?)。
などなど。
あげればキリがありません。
一つ目は『積み上げ』の自信、二つ目は『外側に依存した』自信と言えるかもしれません。
私たちは主に、この他者との比較による「自信」をつけるように、教育されてきてはいなかったでしょうか。
もちろん表面的に社会は「みんな平等」というメッセージを掲げています。
しかしながら、学校教育や社会に入ってからも、実際のところメディアや世間は「人より優れた人生を送ることが成功であり、幸せである」という暗黙のメッセージを送り続けています。
それを逆手にとっているのが広告であり、「これが手に入ればあなたはもっと幸せになれるよ」と、人の欠乏感を煽り、購買意欲を刺激します。
少なくとも、40代の私が育った昭和の時代はそうでした。
この影響がとても大きかったと、最近改めて気づくことができました。
この個人的な気づきについては、後日noteで書こうと思っています。
自信がある・ないを超えた「中庸」という在り方
一つ目の「自信」は2つ目よりはまだ健全な感じがしますが、「自信がある」ことを外的な状況に依存している限り、その状況が変わってしまったら「自信のない自分」に舞い戻ります。
そのため「自信がある」状況を維持し続けるための苦しい戦いが永遠に続くでしょう。
一方「自信のない状態がない」というのは、とても自然だと感じました。
何かに夢中になって自己鍛錬する時ですら「自信をつける」ためにするのではなく、ただ今それをしたいからする。
「自信のない状態がない」ことは、儒教に由来する「中庸」の状態とも言えます。
自然界には「自信がある・ない」という状態はありません。
植物は芽を出し、成長し、時期が来たら枯れて土に戻る。
動物も、そう。
草食動物が肉食動物より自信がないかといったら、そんなことはないはずです。
ライオンも、シマウマも、ただ、今この瞬間を精一杯に生きているだけ。
私たちも大きな視点でいったら自然の一部。
他者との比較や、外側の状態で、自信を持つ必要はなく、今の自分をニュートラルに受け入れられたら、自然と生命力が流れ出す。
そんな風に感じました。
「自信を持とう」と頑張る意欲も、人間らしくて素晴らしいし、それで成長するのも人生の醍醐味です。
それでももし「自信をつけなければいけない」ともがいている人がいたら、それは社会から刷り込まれた思い込みかもしれません。
無理に自信を持とうとせずに、「今の自分」をただニュートラルに受けとめてみる。
それだけで緊張が少し緩むのではないでしょうか。
3回に渡ってお届けした「自信」をテーマにしたブログ、いかがでしたでしょうか。
「自信のなさ」から抜け出すヒントになっていれば幸いです。
私にとっても大事なこのテーマ、また気づきとともに、アップデートします。
