オリンピックが閉会しましたね。
リアルタイムではあまり見れませんでしたが
それでもアスリートたちの活躍を見ると
勇気をもらえました。
私が一番印象に残っているのは、
柔道の阿部詩選手が2回戦で敗退した時の慟哭です。
その姿を見て私は
「これほど人目をはばからず号泣するほどに
私は人生で全力をかけてきたことはないな」
と思いました。
そこに感動というか
「こんなに泣くほどまで彼女がしてきた努力や
プレッシャーは一体どれほどのものなんだろう」
と想像して、胸が張り裂けそうになりました。
みんなそのように受け止めるのかと思ったら
その号泣が一部では批判されていると知り、
とても驚きました。
深い理由もなく話題に乗っかり批判している人も
多数いると思いますが
「礼節を重んじる柔道においてあるまじき姿勢」
と言っている人も多そうでした。
なるほど・・・それは一理あるのかもしれません。
でも詩さんを見ている限り、
礼節を欠く失礼な行為をしているというより
自分では抑えられない感情のエネルギーが
あふれて止められなかったように見えました。
私たち日本人は特に
嬉しくても悲しくても、怒っていても
人前で大っぴらに感情を表現してはいけないと
無意識に刷り込まれてきたのではないでしょうか?
阿部詩さんが号泣しているのを見て
批判的な感情が湧いてきた人は
普段から感情を押さえ込んでいる人が多いのだと思います。
もう一つ印象的な涙のシーンがありました。
それは体操男子団体で金メダルが決まった時の
萱和磨選手の号泣です。
もちろん泣いた方が良いという話ではないんですが、
これも頑張ってきたからこその涙ですよね。
オリンピックである意味
「最上級の悔し泣き」と
「最上級の嬉し泣き」を見ましたが
この感情の振り幅はワンセットです。
世界のトップに立つアスリートたちが
それまでに積み重ねてきた努力
犠牲にしてきたもの
そして自分だけではなく周りの人や
国からの大きなプレッシャーも背負っている。
だからこその
勝った時の喜びの大きさと
負けた時の想像を絶する悔しさや悲しさ。
クライアントさんによく
「喜びだけを感じるのは無理ですよ」
とお伝えするんですが
私たちが喜びや幸せを感じたいのであれば
悲しみや苦しみなどのネガティブな感情も
感じることを自分に許可する必要があります。
私たちの心は
「ネガティブな感情は感じたくないけど
ポジティブな感情だけ感じたい」
という仕組みにはなっていないんです。
宇多田ヒカルさんの「花束を君に」という歌詞の一説に
毎日の人知れぬ苦労や
淋しみもなく
ただ楽しいことばかりだったら
愛なんて知らずに
済んだのにな
(作詞作曲:宇多田ヒカル,
2016年宇多田ヒカル「花束を君に」からの引用)
というものがあります。
これは亡くなったお母さまのことを書いた曲ですが
人を愛するということは
失う悲しみも大きいことが感じられて、
聴くたびに私も泣けてきます。
でもこれが人生の機微ですよね。
失う悲しみが辛くても、誰かや何かを愛した方が
人生はずっと豊かでしょう。
オリンピック選手たちは、
恐らく普段は喜びの瞬間よりも
大変だったり辛いことの方が多いのではないでしょうか?
それでもゴールに向かって努力し続ける姿に
見ている私たちは感動するんだと思います。
チャレンジをしなかったり
感情的なリスクを取らない方が
深い悲しみや悔しさも感じることもなく
ある意味では平坦な毎日を送れるかもしれません。
でも色々な経験をして
あらゆる感情を味わうことこそ
人生の豊かさかもしれない。
そんなこと改めて感じたオリンピックでした。